○○ハラ
某おしどり夫婦の離婚騒動を皮切りに話題となっているモラルハラスメント。相手の嫌がる言葉や行動を繰り返す事で精神的な苦痛を与える事を言う。一例を挙げると「いただきます」「ごちそうさま」を言わない、「誰のおかげで飯が食えると思ってんだ」等の暴言を浴びせる、今回話題になった外出禁止令などがそれにあたる。
世の夫婦は亭主関白もしくはかかあ天下という言葉が揶揄しているように、夫婦のうちのどちらかが実権を握っている場合がほとんどである。特に一昔前においては女性の社会進出が進む前だった事もあり、男は外で仕事、女は家で家事に従事するというのが一般的な夫婦像だったように思える。またそれを許容する社会の風潮もあり何の疑問もなくそれが夫婦のあり方だと認められてきた側面はあった。
多くの場合、亭主関白の家庭においては男性側に女性は男性の生活を支えるものという既成概念が存在する。自分が配偶者の分まで稼いでくる代わりに生活を支えてもらう。これは婚姻関係を結んだ二人が生涯をともにするという前提があった上で成り立つ条件だとも思えるが、この前提が成立する社会に生きるならばこの理論は成り立つと思う。これは決して男尊女卑の概念を肯定しているわけではなく、女性は女性らしく、男性は男性らしくといった前提をもとに、それぞれが活躍できる舞台で自らの力を発揮するという意味においてこの理屈は通る。
しかし時代は移り変わり、女性の社会進出の進展、離婚率の増加等様々な事象を背景に生活の多様化が認められるようになってきた。今までは当たり前のように考えられていたことが時代の変化とともに問題視されるようになってきている。
その一方で食事を作ってくれた人に対して感謝の気持ちを述べることや、女性の(女性のみに限らないが今回は夫婦間の女性に対しての)人権の尊重というのは時代の風習云々に関わらず人として出来て当たり前のことであり、それを行わないことを良しとしていた一昔前の感覚が全体的にズレていたということも見逃してはいけない。人類の進歩、より良い社会にしていくために何が必要で何が不必要なものか。現代社会において優れた思想、哲学は積極的に取り入れていけばよい。情報の錯綜するこの世の中で本当の意味での仕分け能力が問われている。
一歩め
昨日は某企業の一次選考会に参加した。
もっぱらその業界に興味があるとか、その仕事がしてみたいとか言う訳ではなかったが、その社風や社員の考え方や仕事に対する姿勢というものに胸が熱くなる思いを感じたので参加してみた次第である。
周りの参加者はと言えばいかにも「俺たち体育会系だぜ」と言わんばかりの野球部のやんちゃ坊主や、やや内気なテニス小僧ばかりで幼い頃からスポーツしかやってこなかったんだなと感じた。この時期の中小企業の選考ということもあるのか非常に企業のレベルに対して学生のレベルが見合ってないと感じた。本格的に就活のスタートする以前のこの時期に、有望な学生があえて中小企業の選考に参加する目的と言えば、その後に控える就活本番に向けての経験値をつけるためである事がほとんどか、もしくは自己分析を真面目にやりすぎたがゆえに自分の居場所は大企業にはないと気づいた自称鋭い人間なのではないだろうか。
今日行ってみて気づいた事のひとつとして面接官と面と向かって話す事ができれば、自分の良さを伝える事はできるなと。ただESやSPIの段階で切られてしまうとその土俵にも立つ事ができない。今までは自らの人間性を深める事を目的に様々な経験をしてきたが、これからは紙面のための活動に切り替えていく。具体的には、TOEIC、SPIこの二つ+ESの内容をより魅力的な文章にしていく事。すべてを最短ルートでたどり着くためにまずはゴールを把握する。そこから自分との距離を縮めていく。限られた時間の中で最高のパフォーマンスを発揮する。要領の良さがいま問われる。
カンボジア人について
昨日の夜、2週間弱に及ぶタイ、カンボジア一人旅から帰国した。旅の途中、食中毒にあったり、深刻な金欠に陥ったり、タイという国の光と闇の部分を垣間見たりと日本にいてはできないような経験をたくさんできた。出発前は行きたいところをリストアップしてここの次はここに行ってという計画を念入りにたてて行ったが、現地では自分のしたかった旅は観光目的ではなかった事に気づく。観光地を順に巡る旅の形態を否定する訳ではないが、今回の旅の目的はできる限り現地の生活に触れ、日本との文化の違いに触れたいと思っていた。そういった経緯で最低限行きたかった地(アンコールワットやキリングフィールド)以外はきっぱりと諦め、目的もなくプラプラとする日を増やした。そんな旅をしていて特に印象的だったのが、カンボジアでのトゥクトゥクドライバーの家に招待された時の会話。「日本人は一生懸命に仕事をし、たくさんの金を持っているが幸せではない。カンボジア人は仕事は少ししかしないため、ほとんどの人が貧乏であるがみんな幸せだ」今まで給料の高い仕事で休みなく働くか、自分の時間は多く取れるが給料の少ない仕事というどちらが幸せになれるのかというテーマで自分の中で自問自答を繰り返してきたが、カンボジア人は完全に後者の考え方だった。アンコールワットがそこにある限りトゥクトゥクの仕事はなくなる事はないだろうし(鉄道網の発展などは考えられるが、アンコール遺跡群の範囲が広大なためしばらくは実現は困難だと思われる)、将来に対する不安というものを感じている人は俺の目には誰一人として映らなかった。清潔な生活に慣れきった自分はそこで出された水を飲んだ事で1週間たった今でも下痢に悩まされている。しかし現地人は毎日その水を飲む事で耐性が備わっている。シャワーは水しか出ないし、ドアも完全には閉まらない。そんな状況でも毎日happyに生きることは彼らにはできる。またカンボジア人は非常に心優しい人たちだとも同時に感じた。深刻な金欠に陥った俺に対したったの2、3日前に仕事を通じて知り合ったばかりにも関わらず飯や水をおごってくれたり、自宅のシャワーを貸してくれたり、晩餐に招待してくれたりと色々と面倒を見てくれた。経済的に余裕のない生活を送っている事から、金が絡むと貪欲にがめつくなる人が多いが基本的には心優しい人種なのだと感じた。彼らの国が経済的に発展し、日本と同じレベルに到達した際には日本人はカンボジア人から真のおもてなしの心を見習うべきだと思う。旅に出るまでは自分は先進国に生まれ、喉が渇いたら蛇口をひねって水を飲む、このことがどんなに幸せな事かと思っていた。しかし旅から帰ってきた今では心境は少し違う。自分は恵まれた環境に生まれたと思うのは勝手に付け上がりに過ぎず、インフラすらまともに整っていないが、カンボジア人は人の一番温かい部分を日常的に感じながら生活しているのである。本当に恵まれた環境に生まれたのは果たしてどちらなのか。非常に考えさせられた。